
今となっては昔のことである。400年前の天正年間、関白秀吉の天下に反旗を翻す田舎武将がいた。名前は九戸政実。 北奥随一の武将である。事の発端は南部一族の相続問題である。しかし、いつの間にか天下人の秀吉に対する反抗と言うことになった。前の年には、小田原の北条氏が豊臣の軍門に降り秀吉に反抗する者は誰も居ないはずなのである。「気に入らない」というのが政実の気持ちだったのかもしれない。昨日まで秀吉の名前を知らなかったような者までが秀吉に頭を下げている。何かがおかしい。九戸党5000人で秀吉軍10万人と対決することを決意する。天正19年8月25日、九戸対豊臣軍による中世最後の戦が始まった。豊臣軍は徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政など名だたる武将10万人で攻めてきた。
姉帯城、根反城の九戸側の城は奮闘むなしく落城した。政実は浪打峠(末の松山)を固めた。秀吉軍は北へ一歩も入ることはできない。思いもかけなかった展開にあわてた秀吉軍の蒲生氏郷と浅野長政は、それから卑怯な戦法ばかりを使う。まず、政実の実弟・中野修理を九戸城攻めの先頭に立たせる。九戸城の包囲には北奥の武将を配置する。実際に命をかけて戦うのはかつて九戸の仲間だった連中だ。10万の大軍で5千人の九戸城を落とすのは朝飯前だったはずだ。ところが落ちない。攻めるたびに秀吉軍の死者が出た。「こんなちっぽけな城に手を焼くのは秀吉軍の恥だ。早く落とせ」と蒲生氏郷はあせるが落城しない。浅野長政が「政実は長興寺の和尚・薩天を無二の親友と思っている。この和尚を使って開城させよう」と提案した。そして、薩天を呼び出し「九戸の戦いは見事である。関白殿も感服している。城を明け渡せば知行地を与えることを約束しよう。」と言った。薩天和尚は、浅野ほどの武将が仏門にあるものを騙すことはないと本気で考えた。城に入って政実を説得する。弟の実親は、「上方武士はだまし討ちが得意と聞いている。罠かもしれない」と進言する。しかし、親友の言葉を信じて政実は開城を決意する。やはり長政の言葉は嘘だった。九戸方の主立った武将が長政の陣に入ると捕虜となり、秀吉軍の総大将のいる栗原郡三の迫(宮城県)まで護送された。そこで一切の申し開きも許されずに斬首された。開城した九戸城は、九戸方の兵士ばかりでなく女子供まで一ヶ所に集められ火が放たれた。火炎の地獄の中で皆殺しにされた。北国の人々は、九戸政実の事を忘れてはいない。首が切られた三の迫の人々は九戸神社を作り、政実の武勇を語り継いでいる。九戸を逆臣と訴えた、三戸(盛岡)南部家でも九戸政実をその武勇を讃え特別の伝え方をしている。地元の某校では校歌に九戸政実の史実を伝えている。
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