1989年、社会を震撼させた凶悪な少年犯罪「女子高生コンクリート詰め殺人事件」のその後です。
北海道内でも去年、凶悪な少年犯罪が相次ぎましたが、裁判が確定し刑務所を出所した加害者のその後はほとんど報じられません。ある事件を通し、加害者の更生を考えます。
HBC東京支社に現れたひとりの男性。ある人物について証言を始めた。
義兄「こんな言い方したら変ですけど、薄気味悪い。嫌な印象しかなかったですね。(彼が刑務所に入っていたのは知ってたんですか?)知ってました。」
その人物は、刑務所から出てきたばかりだった。
女子高生コンクリート詰め殺人事件。
1989年3月、東京都江東区の埋め立て地で埼玉県に住む当時17歳の女子高生が、無残な姿で発見された。
裁判で実刑判決を受けたのは当時16歳から18歳の少年4人。少年たちは見ず知らずの女子高生を連れ去り、足立区綾瀬のCの自宅に41日間にもわたり監禁し、強姦や暴行を繰り返し殺害した。
準主犯格のBは1999年に刑務所を出所。私たちの取材に応じた男性は、Bの義理の兄だ。
義兄「出所したあとは、人生1からですからローンもたくさん組めるし、自分のやりたいことは全てできるんですね。それで高級車をローンで買ったりとか、まあとにかく目に余るぐらいの、ちょっとやりすぎじゃないかなっていう生活をし始めましたね」
Bは出所してから、コンピューター関係の仕事に就いたが、数年で辞めてしまう。そして2004年、Bは知人の男性を監禁し、けがをさせる事件を起こし、懲役4年の実刑判決を受ける。
山崎裕侍記者「私は当時東京拘置所に勾留されていた男と面会し、手紙のやりとりもしました。反省の言葉は少なく、事件を起こした理由について、ある女性のことについて聞きたかったからだと主張しました」
手紙でBは、自分が好意を寄せていた女性を被害者らが横取りしたと主張した。だが、それはBの思い込みだった。
前の事件での10年間におよぶ獄中生活で、Bには拘禁反応による妄想が現れていた。
義兄「シャワーを浴びてるそうです。何時間も何十時間もずっと。自分の悪行を洗い流したいんだって、もうおかしいですよね。下の階の人のところに行って『ここは俺のうちだから出て行け』とか、俺の周りにいる奴は敵だとか、壁から手が出てきて、襲ってくるとか」
満期で刑務所を出たBは、仮出所者に行われる生活や医療などの公的なサポートは得られなかった。
伊藤芳朗弁護士「いや、もう正直、申し訳ない」
出所後、母親と一緒に暮らすものの、コンクリ詰め事件を起こした当時の歪んだ親子関係のままだったと担当の弁護士は語る。
伊藤芳朗弁護士「彼がお母さんと良好な関係になれば、かなりの部分は解決できるかなというふうに思っていたんですが。そういったところに関わることができなかった」「周りの社会資源というものも活用しながら、もう少し旗を振ることもできたんではないかなというのが私の反省です」
Bは府中刑務所に4年間服役し、2009年に満期で出所。埼玉県内のアパートで生活保護を受けながら一人暮らしをしていた。仕事はせず、ほとんど引きこもりの状態だったという。
義兄「お弁当を母親が作って持っていって、そこに薬を混ぜて、食べさしていたようですけど、生活保護費が入ると、全部タバコ買って吸っちゃうと、そんな生活をずっと続けてたようですね」
その死は、孤独なものだった。
(知人の女性)「事故で亡くなりました。自宅のトイレで倒れて、便器とタンクの間に頭がはさまって抜けられなくなったようです。薬を飲んでふらついたのでしょう。死に顔は穏やかでした」
Bの死からどんな教訓を引き出せるのか…
立命館大学法学部(犯罪学)森久智江教授「出たときに、どうしてもやっぱり家族が主たるそのサポートの主体になってしまうという状況には非常に限界があると思うんですね。妄想性のですね、何らかの困難を抱えてらっしゃる方っていうのは、人間関係がうまくいかなくなるっていうこともしばしばあることだというふうに言われていますので、社会的に孤立した状態に置かないということが非常に重要なんじゃないかなというふうに思いますね」
Bは今、樹木の下で眠る。51歳だった。
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