桂才賀

桂才賀, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=447194 / CC BY SA 3.0

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#笑点
#自衛隊出身の人物
#海上自衛官
#東京都区部出身の人物
#1950年生
#存命人物
桂 才賀(かつら さいが)は、落語家の名跡。
当代は七代目。
結三柏は、桂文治一門の定紋である。
江戸桂派において桂文治、桂文楽に次ぐ由緒ある名跡である。
七代目 桂 才賀(かつら さいが、1950年(昭和25年)7月12日 - )は、東京都大田区出身の落語家。
落語協会所属。
本名∶谷 富夫。
出囃子は「野毛山」、紋は「鬼蔦」。
1969年3月、自由ヶ丘学園高校卒業後九代目桂文治に入門を申し込んだところ、「入門したければ自衛隊に3年入隊なさい」と言われ海上自衛隊へ入隊(舞鶴101期)し、3年の任期(一般隊員としての1任期)を満了まで勤め上げた後、再度門を叩いた。
当時、文治は断り文句のつもりでこの発言をしており、完全に忘れていたという。
1972年3月、九代目桂文治に入門。
前座名は兄弟子・桂文七の前座名でもある「文太」を名乗る。
1977年3月に橘家六蔵、入船亭扇好、林家時蔵と共に二ツ目昇進。
1978年5月に師匠・文治が死去したため、三代目古今亭志ん朝門下となり「古今亭朝次」と改名。
師匠が高座名を命名することがほとんどの落語界では珍しく、この名は自ら考えたものである。
1980年11月2日 - 10月5日に急死した四代目三遊亭小圓遊の後任として『笑点』の若手大喜利から大喜利メンバーとして参入。
1982年に映画『鬼龍院花子の生涯』に出演。
1985年9月に古今亭志ん輔、四代目桂三木助、林家らぶ平、柳家三寿、林家かん平、入船亭扇遊、林家時蔵、柳家小ゑん、春風亭正朝と共に真打昇進し、七代目桂才賀襲名。
昇進披露を『笑点』番組内で執り行う。
1988年3月27日、『笑点』を降板。
法務省久里浜少年院長より少年院篤志面接委員の委嘱を受け刑務所、少年院の慰問活動を本格化する。
同年10月には国立劇場金賞受賞。
2008年8月、刑務所、少年院の25年にわたる慰問活動を綴った『刑務所通いはやめられねぇ』を出版した。
古今亭朝次時代の1980年に『笑点』(日本テレビ)の大喜利メンバーとなり、才賀襲名後の1988年まで出演していた。
『笑点』降板後、テレビ東京『生放送!おもしろ寄席』におけるハリセン大喜利(司会:みのもんた、つまらない答えを出すと五代目鈴々舎馬風扮するハリセン大魔王に叩かれる。罵倒合戦が多かった)のレギュラーだったことがある。
少年院などへの慰問活動の際の共通の話題づくりのためにと自動車やバイクのレースに興味を持ち、国内B級、国内A級のライセンス、公式審判員の資格も取得。
富士スピードウェイでの「富士フレッシュマンレース」(のち「富士チャンピオンレース」)の審判員を務めたこともある。
時々「篠原流踊り」を、自身が主任の高座で披露していた。
背中に背負っている子役を演じたのは立川左談次である。
落語立川流は定席寄席に出られなかったが、左談次は「高座を踏んでいない」という理屈で出演していた。
『笑点』若手大喜利での活躍が認められて、1980年11月2日に大喜利メンバーに抜擢される。
これは、加入前月(1980年10月5日)の四代目三遊亭小圓遊の急逝により、それを補充するためだった。
色紋付は林家九蔵が着ていたピンク色の紋付を着用することとなり、1988年3月27日の降板まで通した。
その後ピンクの着物は才賀降板後笑点に復帰した好楽が再び着用して現在に至る。
歴代『笑点』メンバーで、加入当時二ツ目だったのは才賀が最後である(小遊三以降は加入以前に真打昇進)。
強面の容姿であったが、三遊亭小圓遊の後を引き継ぎキザなキャラクターを踏襲した。
1983年にメンバー入りした三遊亭小遊三とは、自称色男の小遊三とキザな立ち回りの才賀で罵倒合戦が繰り広げられた。
全国の刑務所、拘置所、少年院への慰問活動を積極的に行っていることで有名であり、慰問の回数は1000回を軽く超える。
もともとは、笑点メンバー時代の1983年に妻の実家のある沖縄県の沖縄少年院に慰問に行ったのが最初で、その後北海少年院、久里浜少年院と慰問に訪れるが、この3つの少年院の院長が偶然にも同一人物(人事異動で沖縄→北海道→久里浜と転勤していた)だったという縁もあり、久里浜少年院の慰問の際に篤志面接委員の委嘱を受けて承諾。
以後、少年院はもちろん、少年院で関係を持った職員達が刑務所や拘置所に異動したこともあり、そちらへの慰問も行うようになっていく。
1993年には自らを隊長に芸人...

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