フォークランド紛争

フォークランド紛争, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=5148 / CC BY SA 3.0

#フォークランド紛争
#イギリスの戦争
#アルゼンチンの戦争
#1982年の戦闘
#20世紀の戦争
フォークランド諸島の位置。
アルゼンチン沖、南米大陸南端から500km沖に位置する。
フォークランド諸島は、東西の主要2島と多数の小島からなる。
フォークランド紛争(フォークランドふんそう、英: Falklands War/Conflict/Crisis、スペイン語では「マルビナス戦争」(西: Guerra de las Malvinas))は、大西洋のイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名:マルビナス諸島)の領有を巡り、1982年3月からイギリスとアルゼンチン間で3ヶ月に及んだ紛争のこと。
日本語では「フォークランド紛争」と表記されることが多い。
英語圏では「Falklands War(フォークランド戦争)」とも呼ばれる。
ただし、イギリス陸軍の公式ウェブサイトでは「Falklands Conflict(フォークランドの争い)」の語を用いている。
1982年3月19日、アルゼンチン海軍艦艇がフォークランド諸島のイギリス領サウスジョージア島に2度に渡って寄港、無断で民間人を装って海兵隊員を上陸させた(サウスジョージア侵攻)。
これを知ったイギリスはサウスジョージア島からのアルゼンチン人の強制退去命令を出すと共に、3月28日にはアメリカ合衆国へ支援を要請、アメリカ海軍は原子力潜水艦派遣を決定した。
4月2日には、アルゼンチン陸軍が同島に侵攻してきた。
4月25日には、サウスジョージア島にイギリス軍が上陸、即日奪還した。
しかしアルゼンチン軍は空軍による対艦攻撃でイギリス海軍艦船を次々と撃沈するなど、優位に戦いを進めたものの、イギリス軍は経験豊富なSASによる陸戦や空軍の長距離爆撃機による空爆、また同盟国アメリカやEC及びNATO諸国、さらにアルゼンチンと対立関係にあるチリの支援を受けて情報戦を有利に進め、アルゼンチンの海軍戦力を足止めさせるなど徐々に勢いを削いだ。
6月7日には、フォークランド諸島にイギリス軍地上部隊が上陸、6月14日にはアルゼンチン軍が正式に降伏し戦闘は終結した。
フォークランド紛争は、第二次世界大戦以降の西側諸国の近代化された軍隊同士による初めての紛争であり、その後の軍事技術に様々な影響を及ぼした。
両軍で使用された兵器のほとんどは、その時点まで実戦を経験していなかったものの、同紛争で定量的な評価を受けた。
また、アルゼンチンはイギリスから一部の兵器を輸入していた上、両軍ともアメリカやフランス、ベルギーなどの兵器体系を多数使用しており、同一の兵器を使用した軍隊同士の戦闘という特徴もあった。
両国の国交が再開され、戦争状態が正式に終結したのは、1990年2月5日だった。
しかし、以降もフォークランド諸島の領有権問題は棚上げされ、現在もアルゼンチンは領有権を主張している。
最初にフォークランド諸島を発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれる。
ヨーロッパ人による発見についても諸説あり、1520年のポルトガルのマゼラン船団のエステバン・ゴメス船によるとも、あるいは1592年のイギリスの探検家ジョン・デイヴィスによるともされている。
アルゼンチン政府は前者を、イギリス政府は後者を採っている。
同地は大西洋と太平洋を結ぶマゼラン海峡・ビーグル水道に近く、パナマ運河開通までは戦略上の要衝であったことから、18世紀には領有権争いの舞台となった。
1764年、フランスは東フォークランド島に入植し、サン・ルイ港と名づけた(現在のバークレー湾)。
イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港にエグモント港と名づけた。
スペイン・ブルボン朝は、1767年にフランスからフォークランド諸島の売却を受け、1770年にはブエノスアイレスからエグモント港に侵攻した。
当時、北米植民地の情勢急迫に対処しなければいけなかったイギリスは全面戦争を避け、1774年にはスペインの領有権が一時的に確立した。
しかし1833年には、イギリスが派遣したスループ「クレイオー」によって無血占領に成功 (Reassertion of British sovereignty over the Falkland Islands (1833)) 、以後、実効支配を進めたことで、長らくイギリスの海外領土(属領)とされてきた。
1810年の五月革命を発端とする独立戦争を経て、1816年にアルゼンチンが独立すると、スペイン領土を継承するものと...

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