日本では本質的に戦争の反省がなされず、国益を国民益(国民の幸せ)よりも優先されるシステムがそのまま継続され、再び坂を上り詰めた70年以降行き詰まり加速し、森友学園、加計学園問題での公文書改ざんに見るように暴走して来ているように見える。
改ざん問題を受けての昨年末の刷新した公文書記録管理ガイドラインでも、外部との打ち合わせ記録に対して個別発言を不要と指示しており、益々隠ぺい体質の大本営システムが聳え立つて来ている。
そうした大本営の悪しきシステムを、8月15日放送されたNHKスペシャル『ノモンハン事件責任なき戦い』は膨大な軍事官僚の証言を通して、見事に検証していた。
明治の日露戦争へと上り詰めて行く日本を『坂の上の雲』として描いた司馬遼太郎は、大正、昭和へと坂を転げ落ちていくなかで、ノモンハン事件を悪しきシステムの集大成と考え、「一体こういう馬鹿なことをやる国は何なのだろう」と述べている。
ノモンハン事件でのロシア軍との戦いは、圧倒的な軍備の差によって負けるべくして負けたと言えようが、敢えて正確な情報を無視して精神主義(寄らば切るぞの武士道)で猛進したこと、そして敗北を謙虚に受け取ることなしに死守を強いた現場に責任を押し付けたこと、そして一端行き詰まると自己保身的に暴走して行ったことに、大本営の悪しきシステムを感じないではいられない。
実際ロシア軍との圧倒的装備の差からして、正確な情報取集がなされなかったと言うより、何もできなくなることを恐れて収集された情報を無視し、しゃにむに突き進んだと言えよう。
また戦いの現場の北部陣地フィ高地では10倍近い兵士と、100倍近い戦車の圧倒的軍事力の差のなかで、部隊は物資の補給もなく、孤立し兵士は火炎瓶で肉弾で防衛していた。
その有様はフィ高地兵士の日記が語るように壮絶なものであり(8月20日、フイ高地は優勢なる敵砲兵群に滅多打ちされた。我が陣地は蜂の巣のような状態である。8月23日、食うに食うなく、飲むに水なく、昼は戦闘、夜は陣地の補強、壕内にうめく重傷者の声、漂う死臭。8月24日、ほとんど全滅の惨状、壕の一隅にて天命を待つ)、井置部隊長の「陣地を徹し師団主力に合せんとす」の決断は思慮ある勇断として讃えられるべきである。
しかし現実は自決を強いられたのである。
それは戦後も現在も同じであり、戦後の公団汚職では現場で職務として関与を強いられた担当職員が自殺に追い込まれ、そして森友学園問題でも担当職員が自殺に追い込まれている。
そしてこのフィルムがラストで語りかけるように、ノモンハン事件から2年後アメリカとの戦争に突入して行き、敵の能力を軽視し、十分な見通しもないまま始めた戦争は、すぐに行きづまり、その現実も直視せず無謀な作戦を繰り返し、破滅へと追い込まれて行ったのである。
もし司馬遼太郎が現在の行き詰る日本を見るなら、再び破滅へと突き進んでいると憂い、「一体こういう馬鹿なことをやる国は何なのだろう」と再度強調するだろう。
実際この国は、核兵器禁止条約による世界の核廃絶の流れにブレーキをかけ、CO2ぜロ目標の気候変動阻止の世界の流れに石炭火力推進を掲げ、しかも新重商主義による更なる世界進出のため憲法改正で軍隊を再び持とうとしている。
それを舵取るのが、戦前のドイツから学んだ大本営システムであり、世界が希求する「ともに生きる」流れに逆行していると言えよう。
そうした悪しき大本営システムは、戦後のドイツのように官僚支配から官僚奉仕へと変えて行けば、日本の官僚たちも相模原障害者施設殺傷事件後の職員のように、国民に奉仕することが喜びとなるだけでなく生きがいとなり、「ともに生きる」世界を創り出すことも可能だと切に思う。
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