
鍼灸, by Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=339399 / CC BY SA 3.0
#伝統中国医学
#中国の無形文化遺産
#エネルギー療法
#東洋医学
0.16mm径の鍼 灸 鍼灸(しんきゅう)とは、身体に鍼や灸を用いた刺激を与えることで、多様な疾病への治療的な介入や健康増進を目的とする民間療法である。
中国医学系伝統医学で用いられる治療法の一つで、補完・代替医療とみなされることもある。
諸子百家の時代の中国の文献に鍼灸治療が見られる。
理論が体系化されたのは、戦国から後漢(B.C.5世紀〜A.D.3世紀)にかけての中国であり、最初の理論体系として後漢末(200年前後)に成立した『黄帝内経』(生理学ないし一般病理学についての『素問』と鍼灸理論が扱われた『霊枢』)と『黄帝八十八難経』(『難経』)がある。
身体へ加えた様々な物理刺激による治療的経験則の数世紀に亘る集積であり、これを技術論として構築した技法を「鍼灸」と呼ぶ。
近世まで、生薬方と共に東アジア各国の主要な医療技術として発展した。
特に17-19世紀の日本において鍼灸は独自の発展を遂げ、現在世界的に活用される鍼灸技法の基盤を形成した。
日本では「医師」の他「はり師」「きゆう師」がこれを行える。
20世紀後半よりは欧米においても有用な医療技術として認識されて活用されるようになり(英語ではAcupuncture and Moxibustionと訳される)、これを受ける形で、世界保健機関(WHO)は、1996年10月28日-11月1日にセルビアで“鍼に関する会議”を開催し、1999年には、鍼治療の基礎教育と安全性に関するガイドラインを提示した。
UNESCOは「伝統中国医学としての鍼灸」(Acupuncture and moxibustion of traditional Chinese medicine)を、2010年11月16日に無形文化遺産に指定した。
中国を中心に東アジア各地で近代まで行なわれてきた医療の主流は、生薬を用いた「生薬方」と、物理療法である「鍼灸」である。
診察手段が「体表観察」と「触診」のみしかなかった古代から近代にかけて、体表面からの病態診断法(「証」と呼ばれる病態の分類法)が発達し、それに対応する治療的技法として、生薬方と鍼灸を二本柱とする治療技法の体系が成立した。
つまり鍼灸は東アジアにおける医療技法の片翼で、生薬方に対置するものである。
これら生薬方と鍼灸は、東アジア各国で地域に対応した発達をみたが、特に日本においては、江戸期に技法と技術体系の目覚しい発達が独自になされたことが知られる。
すなわち、生薬方は「漢方」として日本独自のものとして発達し、鍼灸も「鍼管(ストロー状の外筒で中に細い鍼を入れるもの)」の発明による鍼の細径化とそれに伴う手技の変化と体系化が成し遂げられた。
日本産の生薬方である「漢方」と、日本産の鍼管を用いた鍼灸を併せたものが、従来「東洋医学」と呼ばれ、第二次世界大戦後、共産中国において国策として成立した「中医学」と区別されてきた経緯がある。
日本においては、生薬方を用いる医師と鍼灸を用いる鍼灸医は、早い時代から分業化していたことが知られているが、分業が決定的になったのは江戸時代の盲人政策による。
幕府の政策として「按摩」を盲人の専業として規定したところから、手技が連続する鍼灸も時を経ずして盲人の職業となっていった。
これにより、日本においては、一般的な生薬を用いる医師(漢方医)と、盲人による鍼を用いる医師(鍼医)が医療の担い手となる。
盲人が鍼灸を担った歴史は世界の鍼灸を見渡しても例がなく、日本の鍼灸は非常に特異な経緯をたどったものと言える。
先述の鍼管の発明や、技法の独自発達も、これら視覚の不自由な術者が技法を担ったことによりなされた側面が強く、江戸時代の盲人鍼灸医が果たした役割は非常に大きい。
幕末から明治初期にかけての西欧医学の導入に際して、漢方医は比較的スムーズに西欧医に移行したが、鍼医もしくは鍼灸医については、当時の西欧医学には対応する技法もないため医療職からは除外され、「盲人の職業保護」との名目で、慰安業としての、はり・きゆう・按摩の資格と盲学校が残された。
しかし、実際には、明治天皇はじめ鍼灸に信頼を寄せる人々も多く、鍼灸は現実には戦前までの国民医療の一端を担ってきたのが実情である。
戦後、それまで営業鑑札であったはりきゆうの免許が国家資格となり、幾度かの法改正を経て、現在では3年以上養成機関で学ぶことが、「はり師」と「きゅう師」の国家試験受験要件となっている。
なお、医師法との整合性については、「あんまマッサージはりきゆうに関する...
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